新宿や八王子でも競馬が行われていた!

東京競馬場物語(日本近代競馬史)

   現在、東京にある競馬場は「東京競馬場」と「大井競馬場」の2ヶ所。
しかし、以前は新宿や八王子など今では想像も及ばない地域で競馬が開催されていた。

  

◆文明開花と競馬

 安政5年(1858年)、修好通商条約が締結され横浜や神戸に住居を居留した英・米商人などは、母国の文化である洋式競馬を我が国に持ち込んだ。横浜では現在の中区相生町や中華街あたり、また駐屯錬兵場や射撃場に円形もしくは馬蹄形のコースを設え、国内法では禁止されている「賭け」を、治外法権であるが故に公然と行い競馬を楽しんだ。
 そして、慶応2年(1866年)、居留民は横浜根岸に幕府から土地を借り受け、同所に幕府の負担で本格的な競馬施設を有する1周約1,774㍍の根岸競馬場を建設。翌年年初より日本における洋式競馬の幕が切って降ろさる。

 横浜の洋式競馬を模倣した日本人による競馬は、明治3年(1870年)、東京九段の招魂社(のちの靖国神社)に楕円形競馬場をあつらえ行われたのが最初。但し、この競馬は同社神社例大祭の奉納というのが表向きの目的だった。その後明治10年には三田育種場で、また明治12年、新宿の陸軍戸山学校に前米大統領グランド将軍を迎えて、さらに同17年、上野不忍池畔で、いずれも円形馬場をしつらえ競馬が行われた。
 この他にも、それまでの「神様に奉納するための」競馬ではない、「娯楽のための」また「馬匹改良のため
の」そして「日本の文明開花を示すための」競馬が全国で行われた。しかし、根岸競馬のように馬券発売ができなかったため財政難、加えて競走馬確保の問題もあり、いずれも長続きすることができず、明治31年までに根岸競馬を除く全ての競馬場は姿を消した。しかし、この招魂社競馬や上野不忍池競馬は日本にとって大変意義深いものだった。すなわち、欧米の風俗や習慣を模倣することで、日本の文明開花の進展ぶりをアピールし、明治27年に叶うこととなる不平等条約改正のための社交、外交の場としての競馬場だったのだ。同様の考えのもとで造られたのが明治16年に落成した鹿鳴館である。


※我が国の競馬が、最初に文献の上に現われたのは大宝元年(701年)。端午の節会に走馬を天覧されたことが続日本記に記されている。

[招魂社競馬場] 明治3年~明治31年
 明治3年(1870年)9月、現在の靖国神社である招魂社において、兵部省の主催により、軍人が軍馬に跨って我が国としては初めての周回馬場で競馬が行われた。以後明治31年まで、陸軍省(明治5年に兵部省は廃止)が主催し、毎年春秋の例大祭当日、奉納行事として続けられ、東京の風物詩として活況を呈した。
 この競馬場は九段坂に面し、参道の両端に沿って柵をつくり、その両端を結ぶ極端に細長い1周約900㍍楕円形のコースだったため、コーナーが極めてきつく落馬が絶えなかった。競馬場は明治34年に廃止された。
 
『靖国神社競馬の名人』(三代広重画、明治16年)

[三田育種場競馬場] 明治10年~明治23年
 薩摩藩の屋敷があった現在の港区芝3丁目、明治10年(1877年)、その跡地に三田勧業局育種場が建設されることになり、その開設を祝うかたちで、大久保利通内務郷(当時)の肝入りで競馬が行われた。但し、この競馬場は何故か和式競馬であった。
 しかし明治12年には、1周約1,200㍍の正式な馬場が完成し、その暮より洋式競馬を開催、翌年には興農競馬会社が設立され、春秋2回の定期的な洋式競馬が開催されるようになる。明治14年、15年には明治天皇の行幸を仰いだが、何分小規模のものであったため、収支償わないまま、明治23年には姿を消した。
 
『御馬の乗変へ』(小林清親 明治16年) 洋式競馬を開催するはずが・・・。
欧化政策を進める政府高官が、よりによって和式競馬を楽しんでいるのを皮肉った風刺画。
三田育種場競馬場では、後年も洋鞍を使用せず、和鞍を使用する者が多かった。

[戸山学校競馬場] 昭和12年~明治17年
 現在は戸山ハイツが建ち並ぶ新宿区戸山、ここには以前、戸山陸軍学校があった。その西側の土地で、明治12年(1879年)、前米大統領グランド将軍の来日歓迎行事として競馬が開催される。
 1周約1,280㍍の馬場が造られ、明治天皇の臨幸のもと歓迎競馬大会は盛大に行われた。同時に施行会社である共同競馬会が設立され、出走馬の負担重量やスタートの合図、審判の方法やレース数、距離等が定められ、整備された競馬規則のもとで競馬開催が行われた。

 
[上野不忍池競馬場] 明治17年~明治25年
 共同競馬会は明治17年(1884年)11月、交通の便が悪く来場者の少ない戸山から、上野不忍池畔に馬場を移し、上野不忍池競馬を開催。初日には明治天皇の行幸を仰いだ。政府高官や財界人がこぞって集い、井上馨外務郷(当時)主導の欧化政策を象徴する大祭典となった。
 このような屋外の鹿鳴館というべきイベントは、春秋2回を定期として明治25年まで続けられた。しかし、共同競馬会は馬券を発売できなかったため、政府、陸軍のバックアップも限界に達し、翌26年経営難のため解散となった。

『上野乃満花 不忍競馬之図』(幾英画、明治22年)

[吹上御苑の競馬場] 明治8年~明治17年
 明治天皇は、競馬に対し非常に深い関心を持ち、明治13年(1880年)には、根岸競馬場に現在の天皇賞の起源といえる「The Mikado’s Vases」を創設している。また、軍人、華族への馬術奨励にも熱心だった。
 そのひとつとして、皇居西の丸に円形に近い1周約738㍍の馬場をつくり、明治8年(1875年)に競馬を行った。 明治13年から、春秋、午前の乗馬会と午後の競馬会が定例化され、明治17年まで続けられた。レースは3頭立てが主流であったが、勝負服の着用や、降着制度といった先駆的な制度も定められた。

 明治天皇は、競馬が社交・外交の場であること以上に競馬そのものが好きだった。それを物語るエピソードとして、当時の読売新聞は次のように伝えている。「昨日は兼て仰せ出されし如く 主上には午前九時三十分の御出門にて吹上の禁苑へ行幸あらせられて近衛将校の競馬を天覧に成り勝を得たる者へは御手づから絹縮緬等の賞品を賜り午後五時過ぎ御還幸に成ました」(明治13年5月27日付)。
 明治天皇は明治13年からの3年間に、吹上御苑以外でも根岸競馬、戸山学校競馬、三田競馬などを計13回観戦。吹上御苑と合わせると計29回、つまり年に10回は競馬を見ていることとなり、その多くは先の吹上御苑のように、まる一日の観戦であった。
 明治14年5月31日付記事は、もっとはっきり明治天皇の競馬への傾倒を物語っている。「主上には二十九日の正午三十分の御出門にて同所(注;戸山学校競馬場)へ行幸あらせられ兼て設けの天覧所へ着御番組と番外の競馬を天覧の後更にお好みにて四番の競馬が有り勝利の者へは緞子縮緬等を賜って午後七時五分に還幸在せられ……」 予定のレースのほかに番外レースを見、さらに「お好み」で4レース・・・・・・。

  

◆いわゆる中央競馬

 騎兵戦がまだ大きな役割を果たした明治27~28年の日清戦争、明治37~38年の日露戦争では、日本産馬が欧米諸国産やコサック馬と比べ、馬格、能力的に著しく劣っていることが明確となり、欧米のレベルに近づけるための施策が精力的に計画された。
 そこで、競馬の施行こそが最も効果があると主張していた加納久宣子爵や、GⅠレースの安田記念に名を残す安田伊左衛門陸軍中尉(当時)らが発起人となって東京競馬会が設立され、政府に対して「賭け」を伴う競馬施行の許可の請願運動を行った。
 明治38年(1905年)12月、政府は馬券発売黙認の措置を講じ、翌年、東京競馬会は馬券発売を伴う競馬(黙許競馬)の施行を許可された。それをうけ、東京競馬会は池上本願寺近くに競馬場を建設し明治39年11月、日本人による最初の洋式競馬が開催された。

[池上競馬場] 明治39年~明治43年
 東京競馬会は、政府の馬券発売黙認措置に応え、東京府下荏原郡池上村(現大田区池上)の耕地に競馬場を13万円余をかけて建設。明治39年(1906年)11月から12月に4日間開催し、15,000人の入場者を集め96万円の売上を記録し大盛況を呈した。
 当時の新聞記事によれば、「日本一の宏壮雄大な競馬場」と記されている。

池上競馬場スタンド東京競馬会創立記念の絵はがき (明治39年)
[板橋競馬場]明治40年~明治43年
 東京競馬会による池上競馬場での馬券付き競馬開催の動きは、たちまち全国に広がり、東京では明治40年(1907年)に、目黒に日本競馬会、板橋に東京ジョッケー倶楽部が認可を受け、全国では15の競馬法人が誕生した。
 この時期、
馬政局に提出された申請数は200を超えていた。

板橋競馬場の開催広告(新橋、上野、横浜各駅からの直通臨時列車運転の案内ポスター)

 競馬は、庶民の楽しみとして瞬く間に普及していった。しかし、明治末期になって広がる貧富の差もあって、国民の手の届かない掛け金が飛び交う競馬を支援する政府への攻撃が噴出し始めた。また、競馬に絡む詐欺行為や不正行為が横行、また一家離散者も現れ、司法省を中心に馬券発売に対して否定的な意見が強まっていった。
 明治41年(1908年)には政府、議会、行政の各方面で論争に発展、同年10月、ついに全面的な馬券発売禁止という事態に至った。庶民の絶大な人気を獲得しながら、馬券は、誕生からわずか2年で姿を消すことになる。

 馬券が再び日の目を見るのは、禁止から15年後、大正12年(1923年)のこと。その間、競馬は政府の補助金により運営(補助金競馬)された。

[目黒競馬場] 明治40年~昭和8年
 明治40年(1907年)、目黒不動の近くは人が集まるという理由で、現在の目黒区下目黒4丁目、5丁目付近に競馬場が建設され、同年暮に競馬(黙許)が開催となる。
 明治43年には、東京競馬会(池上)、京浜競馬倶楽部(川崎)、日本競馬会(目黒)、東京ジョッケー倶楽部(板橋)の4団体が合併し東京競馬倶楽部が設立され、その本拠地となった。春秋の開催時には権之助坂から列ができるほどの賑わいを見せていたが
馬券発売禁止時代は一、二等席合わせて十数人という日もあったというしかし馬券が復活する大正12年(1923年)以降、再び隆盛を誇ってくる。昭和7年(1932年)には第1回日本ダービーが開催される。
 
しかし目黒競馬場での開催規模が拡大するにつれ、狭隘な施設が不便となり、また借地である敷地の地代値上げ問題や、東京市の郊外発展等の理由から、の移転問題が沸き起こる。昭和8年(1933年)、目黒競馬場は廃場となり、競馬場は府中に移転となる。
 130回以上の歴史を刻むGⅡレースの農林水産省典目黒記念(昭和7年から58年までは春秋の2回開催)は、まさに目黒競馬場が偲ばれる由緒あるレースである。

20世紀デザイン切手「日本ダービー始まる」(2000年2月9日発行)
第1回優勝馬ワカタカ号(左)、第2回優勝馬カブトヤマ号と目黒競馬場(右)

[東京競馬場] 昭和8年~現在に至る
 昭和8年(1933年)、東京府下北多摩郡府中町に、東洋一の規模を誇る東京競馬場が完成、同年秋季競馬より開催が始まった。昭和11年には、競馬法一部改正に伴い、全国11競馬倶楽部の公認競馬団体は日本競馬会に統一。その後、昭和23年には、新競馬法が公布され日本競馬会は解散、国営競馬と地方競馬からなる制度が導入され、日本競馬会は昭和29年には日本中央競馬会となり、競馬運営のシステムは現在に近い形となった。
 その中で東京競馬場は日本ダービーや日本初の国際GⅠであるジャパンカップを昭和56年より開催する等、日本を代表する競馬場としての地位を確立する。平成2年(1990年)の日本ダービー(優勝馬アイネスフウジン)開催日には、196,517人の入場者数を記録している。
 昭和61年、62年には当時の皇太子ご夫妻(現在の天皇・皇后両陛下)がご来場。天皇陛下になられてからは平成17年(2005年)、「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられた第132回天皇賞(秋)、そして平成24年(2012年)、「近代競馬150周年記念」と副題がつけられた第146回天皇賞(秋)に皇后陛下共々ご来場された。平成17年のご来場は106年振りの天覧競馬となった。

 因みに、目黒の移転に当たっては100を超える候補地があげられたが、土地の広さ、交通や物流の便、水の恵みと共に水はけの良さ等の条件を満たした府中が最適地として選ばれた。
 武蔵国の国府である府中は、古くより大国魂神社において古式競馬が催され、後には甲州街道の宿場町として馬市も開かれるなど栄えた町だけに、幾つもの史跡がある。東京競馬場の中にも縄文時代中頃の遺跡があり、縄文土器が発見されている。
 また、中世の土器や平安時代末の経筒(きょうづつ)も見つかっている。第3コーナーから第4コーナーにかけての大ケヤキの脇には戦国時代末から江戸時代初めに生きた井田摂津守是政の墓所がある。源平合戦で名高い武将の畠山重忠を先祖に持つ井田摂津守是政は、八王子城が陥落し、主君の小田原北條氏が滅亡したため、この地に土着し開拓に励んで村の基礎を築いた。

  
完成当時のスタンド(昭和8年)    昭和43年に改装されたスタンド

  

◆いわゆる地方競馬

 東京都(府)における地方競馬は、昭和2年(1927年)7月、羽田に競馬場を建設して行ったのが最初で、翌3年には八王子でも競馬が開催される。
 戦後の昭和23年、新競馬法が公布され
日本競馬会は解散、国営競馬と地方競馬からなる制度が導入される。東京都は連合会から八王子競馬場の施設資産の一斉を継承し都営競馬を開催、その後昭和25年には大井競馬場が完成し、八王子競馬場は廃場となり現在に至っている

[羽田競馬場] 昭和2年~12年
 昭和2年(1927年)7月、有志の手によって東京市蒲田区羽田町入船耕地に約6万坪の土地を借りて建設された競馬場で羽田競馬が開催された。
 その直後の8月、地方競馬規則が制定され、これに伴い、東京府馬匹畜産組合連合会が組織される。昭和7年には施設も充実し、昭和12年秋季まで地方競馬として全国最高の売上を誇ったが、昭和13年、翌年の軍馬資源保護法の施行にあわせ廃場となった。なお、昭和2年秋季および昭和3年春季開催は城南畜産組合の主催で洲崎埋立地で開催されている。なお、羽田競馬場は日本で最初の少年騎手学校が作られた。

[八王子競馬場] 昭和3年~24年
 
八王子競馬場は昭和3年(1928年)南多摩郡小宮町に建設され、同年11月より競馬を開催、昭和9年まで続いた。同年秋、八王子駅寄りに移転、軍馬資源保護法公布後の昭和15年からは鍛錬馬場として鍛錬馬競走を施行した。
 昭和23年、競馬法の公布に伴い、都営競馬として開催されたが、翌年12月を最後に、都営競馬は大井に移された。
  
八王子競馬大會を記念し、はがきに押された記念スタンプ(消印)
[大井競馬場] 昭和25年~現在に至る
 大井競馬場は昭和25年(1950年)5月に東京都競馬㈱の手によって京浜埋立地の品川区勝島町に完成、同年12月から競馬が開催された。
 昭和26年には競輪が休止されたこともあり、更に当初より、公正明朗にして大衆に信頼され、しかも興味深いレースの展開を図るため、競馬秩序の高揚、競走馬資源の確保対策、スターティングゲートの採用、公正委員制度の創始、勝負鉄使用の規正、施設の改善等について鋭意努力を重ね、大井競馬は隆々として発展していった。
 ゴール写真判定装置やスターティングゲートの採用、装鞍所や騎手席に対する余人の立入り制限は大井競馬が日本全国に先駆けて行ったものである。その後も、昭和61年にトゥインクルレース、平成11年にはワイド馬券、平成14年には3連単を導入するなど、JRAを凌駕する新機軸を打ち出し確固たる地位を築いている。
 
参照文献;日本中央競馬会二十年史(1976年 日本中央競馬会)、地方競馬史第一巻(1972年 地方競馬全国協会)、競馬百科(1976年 日本中央競馬会編 みんと)、東京都馬主会30年史(1997年 東京都馬主会)、日本の競馬(1974年 若野章 恒文社)、天皇家と競馬(1975年 若野章 恒文社)、浮世絵 明治の競馬(1998年 日高嘉継他 小学館)、明治の読売新聞トピックス(読売新聞)、競馬異外史(1987年 早坂昇治 中央競馬ピーアール・センター)、府中と東京競馬場(1995年 馬事文化財団)、諷刺画にみる馬(1997年 馬事文化財団)、エドウィン・ダンの生涯(1984年 赤木駿介 講談社)、TOKYO CITY KEIBA 2003-2004 CATALOGUE(2003年 特別区競馬組合)
 
立川健治著 「文明開化に馬券は舞う」「地方競馬の戦後史」