馬のカード展

【サラブレッド3大始祖】

 17~18世紀にかけ英国が中東や北アフリカなどから輸入もしくは略奪した種牡馬は200頭を超えると言われる。1793年にウェザビー・ジュニアの手により出版されたゼネラル・スタッド・ブック(サラブレッド血統書)の第1巻には、このうち174頭が記載されている。その後、世代を重ねるうちに、これらの父系子孫の殆どが淘汰され、現在、世界中にいるサラブレッドの父系を溯っていくと、わずか3頭の馬にしか辿り着かない。
 その3頭とは、バイアリー・ターク(1680)、ダーレイ・アラビアン(1700)
ゴドルフィン・アラビアン(1724)である。
 

バイアリー・ターク(1680~1705)

 タークとあることから、トルコ産と思われがちであるが、当時、トルコ経由で輸入された馬はタークと称されていたため、実際の産地は明確ではない。ただし、ジョン・ウートン作の上の絵(テレカ)を見ても、ツル首にランランと光る大きな眼、尾離れの良さなど、当代第一級のアラビア馬の特徴をよく示している。

 Byerley Turkは、1687年に英国のロバート・バイアリー大尉が、ブダペストで手に入れたとされる。その頃トルコ軍はハンガリーに侵攻、英国から義勇軍を率いて参戦した大尉は、背走するトルコ軍からその類い稀な素軽さと群を抜くスピードをもつ牡馬を奪い取り、Byerley Turkと名付け英国へ連れ帰る。1690年のポインの乱(アイルランド)では自ら騎乗、反乱軍を鎮圧し大佐に昇進する。

 その後、Byerley Turkは大佐の生地である英国北東部ダーラム州ミッドリッジで種牡馬となり、次いでヨーク郊外のゴールズバラに移され、1705年に死亡するまでそこで過ごした。しかし、配合牝馬には恵まれず勝ち馬は僅か6頭であったが、その内の一頭であるJigからPartnerが出、PartneはTartarの、Tartarは名種牡馬Herod(1758年生)の父となり、Byerley Turkの父系は今日まで絶えることなく続くこととなる。

 Herodは英国ダービーが創設された1780年に死亡、直仔でダービー馬となった馬はいないが、孫のDiomedが第1回ダービーを制覇、Diomedはその後アメリカへ輸出され、一大父系の祖となった。従って、Byerley Turkからつながるこの父系はヘロド系とも呼ばれ、ダーレー・アラビアン系と二分するほど繁栄した。しかしヘロド系も20世紀になると、その血は急速に減退、わずかに直仔のWoodpeckerが血を伝えるのみとなったが、1911年に芦毛の名馬TheTetrarch、そして1928年にTourbillonが出現、Tourbillonからは、その後1960年の*パーソロンが現れ、我が国では三代続く父内国産の天皇賞馬であるメジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーン、また七冠馬シンボリルドルフ、その仔トウカイテイオーらへと繋がっていく。


ダーレー・アラビアン(1700~1730)

 現在、世界には50万頭を越すサラブレッドがいると推定されているが、その父系を辿ると、90%以上がDarley Arabianに到達する。母系も含めれば、今のサラブレッドの全てが祖先のどこかでDarley Arabianに行きつくことになるといっても過言ではない。時が経てば、サラブレッドの始祖はDarley Arabian、とされる日が来ることも十分考えられる

 シリア砂漠周辺に住む遊牧民、アラゼー族によって生産され、後にDarley Arabianと名付けられる超純血アラブ種は、シリア北西のアレッポで英国領事をしていたトーマス・ダーレーによって、所有者シェイク・ミルザから略奪され、4歳の春に英国に連れて来られた。盗まれたことを知ったシェイクは、管理していた牧場長と牧夫を町の広場で処刑、さらに英国アン女王あてに「私のかけがいのない、王の身代金よりも高価なアラビア馬が、お前の国の何物かによって盗み去られてしまった」との抗議文を送り付けている。
 後に、ダーレー家の一員が殺害される事件が起きたが、これはシェイクの報復ではないかとの説もある。

 英国についたDarley Arabianは、ヨークシャー東部にあるダーレー家の牧場で、乗用馬、そして種牡馬として生涯を過ごした。交配相手は、殆どダーレー家の牝馬に限定され、生涯に残した産駒は数十頭にとどまったが、1713年の種付けから、英国最初の歴史的名馬とされる6戦全勝、種牡馬としても優秀だったFlyng Childersを送り出す。その全弟のBartlet's ChildersはSquirtを送り、その仔Marskeがあの「エクリプスが1着、他の馬はどこにも見えない」というデニス・オーケリー中佐の言葉でも有名なEclipseを世に送り出した。

 1764年の日食(金環食)の日に生まれたとの言い伝えがあるEclipseは、当時では一般的であった満5歳でデビューし、18戦18勝。その後、種牡馬となり、自らが16歳の時に始まったダービーにも、第2、4、5回と3頭の産駒が優勝する。
 血は2頭の直仔、Pot 8O’s(1773年生)とKing Fergus(1775年生)を通して世界中で繁栄。我が国でも確固たるサイヤー・ラインを築き、*テスコボーイ、*ノーザンテースト、*リアルシャダイ、*トニービン、*ブライアンズタイム、*ジェイドロバリー、そして*サンデーサイレンスからディープインパクト。また、アイドルホースのハイセイコーやオグリキャップもそうである。
 因みに、エクリプスとは、日食、月食の意味であるが、動詞で使うと「相手を凌ぐ、負かす」の意である。

ゴドルフィン・アラビアン(1724~1753)

 後にGodolphin Arabianと名付けられる牡馬は、アラビア半島南西端にあるイエメンの有名な純血アラブ種、ジルファン系の流れをくむ。アラビアでも滅多にいない名馬と崇められ、シリア経由で北アフリカのチュニジアの総督へ送り届けられ、その後、総督により、1730年、フランス国王ルイ15世に献上された。
 しかし、気性が荒いうえ、長旅のため痩せこけ見栄えがせず、パリ市内で散水車をひく荷役をやっていたとも言われる。そのため、同年、英国人エドワード・コークに買われ、英国ダービー州ロングフォード・ホールの彼の牧場に移動することになった。

 コークが1733年に死亡すると、ロジャー・ウイリアムズに引き取られ、その後、第二代ゴドルフィン伯爵に買い取られ、Godolphin Arabianの名で、ニューマーケット近郊の伯爵所有のゴグマググ牧場で過ごした。
 因みに、Godolphin Arabianは、ゴドルフィン・バルブと言われることもあるが、これはバルブ種で知られる北アフリカ経由でヨーロッパに渡ったため、バルブ種だろうと勘違いした人がいたため。

 Godolphin Arabianは上記2頭と同様、競走歴はなく、最初から種牡馬として供用されたが、当初はアテ馬だった。先輩種牡馬のホブゴフリンが名牝ロクサーナとの配合を嫌がったため、(格闘で奪ったとの説もあるが)代役で起用されたのが最初の種付けだとされる。この種付けから生まれたラスは競走馬として大活躍し、2年後の1734年に同じ配合で生まれたCadeは種牡馬として1748年にMatchemを送り出した。Matchemの競走成績は特筆される程ではなかったが種牡馬として大成し、Godolphin Arabianの直父系はマッチェム系と呼ばれるようになった。

 ただ、この父系は常に傍流血統に甘んじてきた。そこに突如として現れたのが、赤栗毛の毛色からビッグ・レッドの愛称で親しまれた21戦20勝の名馬Man o’War(1917年生)である。「もう傍系とは呼ばせない」と期待され、1926年には北米リーディングサイヤーとなったが、種牡馬としての発展性は今一つであった。
 日本においてもこの父系は地味であり、わずかに日本ダービー馬クライムカイザーなどで名前を見ることができる程度。ただし、*リアルシャダイの母の父In Realityがマンノウォー系の種牡馬であるように、母系としては強く影響力を有している。

 Godolphin Arabianの半伝説的な一生は、アメリカの女流作家マーゲライト・ヘンリーによってまとめられ、1948年『King of The Wind(日本語訳;名馬風の王  講談社 青い鳥文庫)』として出版され、アメリカ図書館協会賞、ニューベリー児童文学賞を受賞している。
 小説『優駿(新潮社)』は、著者の宮本輝が幼い頃『名馬風の王』を読んだことが著作の動機になっている。

【テレカ】JRA競馬博物館 2001年開館10周年特別企画「サークルビジョン作品上映」において9作品を全て観たファンへのプレゼント商品「博物館オリジナル3大父祖馬テレカセット」 【参考および関連文献】競馬百科(日本中央競馬会 みんと)、サラブレッドのルーツをたずねて(根岸競馬記念公苑)、サラブレッド種牡馬系統譜(日本中央競馬会)、馬の博物館(馬事文化財団)、世界名馬ファイル(石川ワタル 光栄)、競馬の血統学(吉沢譲治、NHK出版)、名馬の血統(山野浩一、明文社)、サラブレッド血統マップ(小林皓正 コスモヒルズ)